夏王朝以前の、超古代の中国に出てく・・・に関する記事

質問
夏王朝以前の、超古代の中国に出てくる堯、舜といった、聖王ですが、かれらの正体、というか、その実在性はどうなのでしょうか?この時代の中国は2〜3世紀の日本にあったのとよく似た集落(ムラ、クニ)の集まりで、その中のリーダー達による一種の合議制で統治されていたと聞いています。あるいは、その集まりで選挙というか、自薦他薦みたいな感じで最も優秀と思われる人が選ばれて、全ての裁量を任される、とか。堯舜はその中でも特に優秀な指導者だったから後世に名を残した、と推測しています。鼓腹撃壌の言葉通り、存在自体を人民に気付かれない、という中国人が最も好む統治体制だったのでしょう。その後に出た禹は治水工事とかで強大な権力を手中に収め、以後は彼の一族による世襲制に移った、とか。ただ、堯舜というのは、民衆の希望、理想から生まれた想像の産物に過ぎなかった可能性もありますよね。中国の歴代王朝はほとんど、下手な賊よりもよっぽどたちが悪い存在で、官僚よりもヤクザな人の方が民衆に近い立場にいる分だけ物分かりがいいほどだとか。兵士なんか完全に民衆の敵。略奪するだけの存在。「良い鉄は釘にならない、良い人間は兵にならない」ていうぐらい。塩賊なんか、王朝には敵でも、民衆にとっては味方ですよね。ゆえに堯舜のようなゆるい統治を求めたとも想像できます。このあたり、伝説とかを考慮に入れない、皆様の考察と意見が知りたいです。

回答
史記なども項目を割いて登場する。伝説の聖王のことは興味深くてロマンを感じますね。成立過程をよくよく考察すると戦国時代に深いかかわりがあるようです。なかなか四書五経を読んでもパット頭に入って理解できるものではないので、チョッとその辺りをなぞって見ましょう。甲骨文字や殷墟などの発掘により、部族連合としての商(殷)王朝が存在したことは間違いのないことで、牛を飼いならした「土」という伝説上の人物。史記のなかにも「相土」という名前で出てきます今はもっぱら乾燥している地方が多いですが、水滸伝の梁山泊も湿潤な湿地帯であったことや、韓非子の記述でも「上古のころは人民少なくして禽獣多く聖人ありて木を構えて巣を作り、もって郡害を避けしむ。生臭く悪臭にして胃腸を壊し民に病害多し。聖人あり火をとりて生臭いものを化す。」今とはちがって黄河の流域も西に位置することもあり、温暖で湿潤であり、冬は雪が多くふったであろう事もわかっております おそらく商も初めのころは牧畜をしながら徐々に農業に切り替わっていったのだと考えられます。そして農業で生産能力が飛躍的に向上すると人口も次第に増えて、当時は焼畑が盛んだったことでしょうから焼いた炭素で窒素を増やすという手法は2・3年で土地の肥料が尽きて作物が育たなくなり農地がダメになるので、洪水もありますがそういったこともあって遷都も頻繁に行ったのでしょう、新しい耕作地を探すためにも各地の遊牧民などの夷を征伐しながら勢力範囲を広げて言った様子とも考えられますまた夏の桀王を商(殷)の湯王が滅ぼしたのも何らかの部族同士の争いがあって勢力が交代したと有力な見方も出来るでしょう話を戻しましょう孟子の中に斎の国をおとすれた後。孟子の顔色が優れないので弟子が窺う場面があります「500年にして必ず王者の興るあり。周より700年余りすでに過ぎて、いまや王者の出でて可なるときなり」また、孟子はその巻末に堯舜―殷の湯王―周の文王―孔子のそれぞれが500年間隔だという伝承を紹介していますそして、史記「五帝本紀」の五帝は下のとおり黄帝―??―帝?―帝堯―帝舜 後世の私たちは史記の影響が一番強いと考えていいでしょう。しかし史記よりも古い「詩経」にはいくつか「禹」の名前はでてきますが堯舜の記述はマッタクありません。おなじく史記より古い「書経」では後世の加筆となる「堯典」「舜典」「皐陶謨」は当然としても、当時かかれたであろう本紀には記述がなく、他の偏に「禹」の記述が出てくるだけで、ここでも堯舜についてはマッタク記述がありません 論語も楚辞もそうですが堯舜の名前はあるものの「堯舜なおそれを病めリ」など具体的な事柄はひとつもなく、良くよく読み進めていくと「禹」が堯舜の家来ということなら、当然何らかの関係があるはずですが何も記述が残されていないということは、業績とされる治水にも当初はマッタクなんの関係もなかったことがわかります 関係が形作られるのはそれよりも後、禹が堯舜の家来とされるにしたがって治水と関係を追加せざる終えなくなり、堯が鯀に治水を命じて失敗し、舜が禹を推薦する形をとっていくことになりますでは、肝心の業績を記したもの「書経」のなかの「堯典」「舜典」については、商(殷)の時代の文章の記述とは明らかに違って紀元前500・600年頃の戦国時代の作と考えて間違いないとされています。商(殷)の時代も暦の使用方法が三度変わっているのでいろいろと調べればどの年代かわかるのです。文字から紐解くと堯舜は固有の人物のなまえというより名詞・品詞といってもいいでしょう堯=「土が三つ+兀(人の足)」丘の様に高い人を表しています。つまり孔子「論語」の堯を表す言葉として二度も「巍々乎」といっているのは高い山のようだといっているのは、単に偉大なる偉人。太古の偉大なる王を差している言葉と考えていいでしょう舜=「炎+舛(人の足裏の形)」俊敏な人。「舜は重瞳子なり、項羽もまた重瞳子なり」といっていることから俊敏で目ざとい人とも取れます。舜が、父母にいじめられて出世していく「舜至孝変文」は唐の末期・五代にかけて春秋戦国時代の頃の逸話を集めて講義に使ったことから広く民間に広まったことで、たぶんに当時の唐が推し進めた儒教の精神が政治的な色をともなって脚色されているといえるでしょう思想的には、孟子や墨子の謙譲を尊ぶ思想から各地で遊説を行うのに作り出されたものでしょう。また孔子も一役買っていますが、戦国時代に禅譲という事柄をもっともらしく持ち出すのにあつらえた物でしょう。

出典:Yahoo!知恵袋

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