徳川幕府は、何故中央集権(国家)体・・・に関する記事
質問
徳川幕府は、何故中央集権(国家)体制にしなかったのでしょうか?家康が開幕して依頼、やく300年続いた江戸幕府です。家康が開いた幕府は、武家諸法度(公家諸法度含む)や参勤交代制度、幕府領地各地の築城や治水工事などの賦役により、各諸大名に命令を出して負担させ実行させていた。参勤交代は人質と出金を強いる制度であり、各賦役は各藩に財力投資を強いることである。ところで、例えば、江戸幕府は何故、「各藩の徴収の何割かを幕府に収めよ」という中央集権体制を取らなかったのだろうか?家康の時代は、豊臣秀頼派閥が畿内に存在し、九州(特に島津氏が勢力を蓄え反抗していた)の動向もあったのでしょう。家光の時代には、生まれながらの将軍だとして、諸侯に家臣としての号令をかけています。もし、この時期(強力な将軍権限権力)により、各藩からの租税集金制度を確立していたのなら、徳川幕府は、もっと持ち堪えられており、より巨大な日本が形成されていたことも考えられるのでないでしょうか?家康は、当時の外交相手のオランダ王国の政治統括状況も把握し参考にしていたとは思いますが。何故、家康や歴代幕府将軍幕府閣僚は、中央集権体制による直接的で実質的支配をせず、幕藩という間接的支配に甘んじたのでしょうか?ただ、仮に徳川幕府が継続した強大な力を得ていて、歴史上の実際の幕末当時に、強大な政権を持っていたとし場合。諸外国がどう干渉して、日本の開国交渉と国内政治がどうなっていたjか?それを推し量ることは容易ではありませんが・・・。
回答
できない。不可能。有り得ない。1.中央集権化する理由が無い。理論的根拠が無い。統治機構を構築できない。何のために中央集権化するのか。その理由、目的がない。中央集権化の理論的根拠がない。徳川幕府は関東に転封されるまえは三河の田舎大名に過ぎません。やっと関東経営に慣れてきたといっても、地方のことなどまるで分からない。地方の文化・風土・気質・経済・特産品・気象、全然分からない。米が取れるのか取れないのかも分からない。徳川幕府にそんな人材がいないのです。2.徳川幕府には全国的な権力・軍事力がない。徳川将軍家は最大の経済力を持つ大名であったとしても、日本全国を戦争で侵略したわけでもないし、そんな軍事力があったわけでもない。徳川将軍家は豊臣政権の内部対立に乗じて、その一方の勢力に加担して利用して、それを支持基盤として幕府を開設したまでのことなのです。東北から九州まで軍を動かして支配下においたわけではない。3.諸藩の大名の既得権益、武士の既得権益を侵せない。将軍家は諸藩の大名の支持を得て、その支持基盤のもとに成立しているのです。自分の支持基盤を侵せば、幕府を自分で崩壊させるようなもの。4.当時はそれが中央集権化だった。あれが徳川幕府の中央集権体制なのです。現代人の眼からはそうは見えないかもしれない。しかし、幕府はあれが中央集権体制と考え、中央集権化を成し遂げていたつもりだったのです。世界史を勉強すればわかります。例えばドイツ統一はどうしてなされたか。小国に分立していたら英仏に対抗できないからです。外国に従属し屈服するほかないからです。日本は地政の利もあって外国を意識する機会が無かった。従属し屈服し支配され、外国人に虐待されたことがなかった。だから強国にしようとも考えない。大名が喧嘩しないでいてくれて米が取れればそれで満足。日本が外国を意識したのはいつか。それが幕末なのです。このままでは外国に従属し屈服し支配されることになる。そういう危機意識を持ったのは幕末なのです。そういう時代になって、ああ幕府のやり方ではもう駄目なんだと皆が考えた。そうして明治維新が起こった。
出典:Yahoo!知恵袋
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